2012/07/05

点取占い あるいはショウユ味のシュールレアリスム

tentori

都築響一の「夜露死苦現代詩」(新潮社 2006)より、点取占い誕生の経緯について述べられた個所を抜き書き。
点取占いが注目をあびるようになったのは80年代に雑誌「宝島」の「VOW」でネタにされた頃だろうか。

点取占い あるいはショウユ味のシュールレアリスム

 点取占いは大阪天王寺堂ヶ辻もあったミヤギトーイという玩具会社が、昭和10年に発売した「点取辻占」という玩具がもとになってできたものだという。戦災で資料や版をすべて消失したため、第二次大戦後にミヤギトーイの宮城昭三社長が、ゼロから作り直して販売を始めたのが、いま駄菓子屋で売られている点取占いだ。

 ミヤギトーイの廃業後、点取占いは三厚という玩具会社に移ったが、業績不振のための12〜13年前(転載者注:この本の初版は2006年)に、同じ大阪のワカエ紙工に吸収合併されている。ワカエ紙工はもともと玩具でなくパッケージ用紙を作る会社で、チョコレートのモロゾフや、ルイ・ヴィトン(!)のパッケージも手がけているという。あのルイ・ヴィトンの茶色の箱が積み上げられている片隅で、点取占いが細々と袋詰めされているかと思うと、ちょっと楽しい。

 ワカエの山田博社長によれば、点取占いは三厚から受け継いだものの、「社員たちも、だれひとりとしてピンとこなかった」。会社の業務のうちでは小さな割合だし、原価のかかる割に儲からないので、こんなのやめようという声が多かったが、忘れたころにぽつぽつ注文があるので、まあ続けてみようとやっているうちに、いつのまにかちょっとしたブームになってしまったのだとか。「駄菓子屋など、販売場所も限られているし、吸収合併した会社から引き継いだだけの商品が、こんなことになるとは」と驚いておられたが、いまでは点取占いの版元であり、商標権も持っているワカエ紙工のもとに、さまざまな業種の会社から点取占いを使ったビジネス展開のアイデアが持ち込まれ、いくつも実現されている。

(中略)

 いちど点取占いの魅力にハマると、だれもが自分のオリジナルを作ってみようとする。それはとても楽しい作業だが、いま売られているオリジナル点取占いを見ても、残念ながら、どれひとつとしてもともとの版が持つ、なんともいえないユーモアに匹敵するものは出ていない。ではなぜミヤギトーイの原版があんなにおもしろいのか。それは、変な言い方だが、おもしろいフレーズを作ろうと思って、作ったのではないからなのだ。

 ミヤギトーイ版の点取占いには全部で672種類の籤が存在しているが、実はそのすべての詩句を宮城昭三社長がひとりで生み出したのだという。どうやったかといえば、ワカエの山田社長が聞いたところでは「宮城社長が寝ながら、ふと思いついたことを書き溜めてた」とのこと。「星がきれいだなあ」とか「宇宙船に乗れるかなあ」みたいに、意味など考えずどんどんメモしていったらしい。そうやって、なんと当初は3000種類(!)の文章をひとりでひねり出したというから、すさまじいクリエイティビティである。

 しかしこれは、ほとんどシュールレアリスムの自動筆記の世界ではないか。日本のアンドレ・ブルトンは天王寺にいたのかと思うと感無量だが、その「寝ながら思いついた」文にイラストをつけたのが、デザイン工房という会社にいた天野さんというデザイナー。宮城社長にはなるべく泥臭く描いてくれと注文されたそうで、さすがというほかないが、あまりの数の多さに天野氏ひとりでは間に合わず、宮城社長、奥さん、それに従業員まで、自分も描いてみようというノリで描いた「お絵かき」が、商品の挿画になってしまった。言うなれば社長の自動筆記と、シロウトのお絵かき、このふたつの強力な要素が合体して、点取占いというシュールにして最強の路上現代詩を生み出すことになったわけだ。ロートレアモンは手術台の上のミシンと蝙蝠傘の出会いを詠った、大阪の玩具会社のオヤジの脳内世界と、シロウトお絵かきが町角の駄菓子屋で出会い洟垂れ小僧にむしり取られた瞬間、ショウユ味の和製シュールレアリスムは極東の島国に花開いたのである。(なお今回の取材で、宮城社長がいまも大阪でご健在であることが判明した。)

 いま駄菓子屋で手に入るワカエ製の点取占いは全672種類、すべてもともとのミヤギトーイの版をそのまま使っている。50年以上前からまったく手を加えられていないまま、現在まで受け継がれているわけで、それがあの一種アナクロな魅力の秘密でもある。(後略)

「夜露死苦現代詩」 都築響一著 新潮社 2006 より

夜露死苦現代詩
都築 響一
新潮社 ( 2006-08-30 )
ISBN: 9784103014317

オリジナルではないけれど、小林源文の「黒騎士物語」のパロディ点取占い(ふたば辺りで作られたもの?)が好きだなぁ。

uranai_nomarcy

<参考>
点取占い
asahi.com:【点取占い】奇々怪々 愉快なセカイ - 関西 開発者である宮城昭三氏へのインタビューあり。
昭和レトロだけど今時の若者にもヒット 「点取占い」の世界 : Nicheee!
株式会社ナカイコー 現在の製造元ワカエ紙工は株式会社ナカイコーのグループ会社

2012/07/02

無毛症の女を好んだ乱歩先生の実弟平井通氏のこと

「奇譚クラブ」や「裏窓」の編集や、喜多玲子名義での緊縛絵で知られる美濃村晃(須磨利之)が、SM雑誌「月刊スパーク」で連載していた「美濃村晃淫行録」の中で、江戸川乱歩の実弟の平井蒼太の筆名でも知られる平井通について述べたコラムを見つけたので抜き書きしておく。

平井通氏のことと題されてはいるが、文章のほとんどは自分が縛った無毛症の女に関する記述で資料的な価値はない。

無毛症の女を好んだ乱歩先生の実弟平井通氏のこと

 江戸川乱歩先生の本名は「平井太郎」であるが、その先生の弟さんに平井通さんという酔人が居られた。この平井通さんという方は無類の無毛症の女性を好んだ方で、私は性雑誌「あまとりあ」の編集記者だった関係でよく、「無毛症の女が居たら紹介してほしい」などと云われていたものである。通氏は私が紹介した女性には妙な行為をする訳ではなく適当にお小遣いを渡して親切な紳士として遊んでおられたようだが、人によっては「オレは無毛症の女でないと勃起しない」などと云う変人も大勢の中には居るのであった。私はその平井通さんの薫陶でいつしか無毛の女が好みとなり、機会があるごとによく縛るようになった。あそこに毛が生えてない女はハダカにして縛ると普通の女よりも羞恥の度合いが激しいのでおもしろいのである。この写真の女は、はじめの内は全裸にすることを知らせないでおいて、両手を縛ってしまってから、パンティを脱がせることを宣告したのであった。その時の羞かしがりようはたいへんなものだった。スベスベの幼女のようなお○○こは、中心にくっきりとピンクのタテ溝を彫りあげていて、桃色をした肉芽がのぞいていた。やがて両足もうごけぬように縛りつけてしまってから、おさねを指先ではじきながらいじくってやるのだ。その間は無毛のお○○このありさまを大きな声で云いながら羞しめてやるのである。無毛の女はあまり男に接することがないから、セックスには激しい反応をみせるのだ。一物を入れてやると、反りかえって泣きながら気をやりつづけ、なかなか離してくれない。締まりはいいし、おつゆの出し方も上々であった。それに強度のマゾ性の持ち主でもあった。どんな縛り方をしても嫌だとは云わないし、無毛のお○○このことを云われるとトタンに興奮して抱きついてくる癖がある。(平井通氏の乾分・美濃村晃記)

「月刊スパーク」1987年9月号掲載「美濃村晃淫行録 第10回」より

平井通のパイパン好きの話は前のブログで一度取り上げたことがある。伴田良輔の「夜の雑誌たち」という50年代後半から70年代にかけてのエロ雑誌に関する本の中で、当時のエロ雑誌の1つである「女体画報」のページが見開きで転載されており、そこに平井通と近代文学研究家の中野栄三との対談記事が記載されていた。

『毛のない女性を探して30年間のノートより……』と題された対談で、平井通が中野栄三に対して自分の無毛症の女性への拘りを語るという内容。あおりの文句に『「無毛症の女体こそ最高の美だ」と喝破する、滋味あふれる人間宣言』とあった。

「夜の雑誌たち」には見開きのみの転載でこの対談の全文を読むことは出来ないのだが、読める部分だけを抜き書きしたモノが以下になる。

毛のない女性を探して30年間のノートより……

中野: 平井さん、このごろ無毛症の研究のほうはどうですか?

平井: なんですね、五十をすぎてから、以前よりもいっそう無毛症に関心がつよくなったような気がします。やはり性欲が減退して、少年にかえって……、

だから少女が欲しいのかもしれない。しかし少女は困るから、無毛症で……(笑)

中野: いったい、いつごろから無毛症に興味をもちはじめたかを、まず聞きたいけれど。

平井: いつごろってこともないが……。ただ少年時代こんなことがあって、それが潜在意識にはたらきかけているのかもしれない。

中学時代、長屋に暮らしておった。平屋建てなんだが、僕は暇があると屋根の上にあがって寝そべって本を読むクセがあった。

ところが真向かいの長屋に三十あまりの男好きのする奥さんがいてね。のちに暗殺された犬養毅首相の書生さんのワイフなんだが、ある天気の良い日の昼さがり、窓をあけっぱなしにしたまま、うつむいて何かやってる。

屋根の上からまるまるノゾけるんですよ、それが。よく見ると、ハサミを動かしている。からだを乗り出して、さらによく見たら、なんとチョキチョキ毛を刈りこんでいるんですよ。真っ黒な毛の、おおいのを気にしてのことだったのでしょうが、そのジャングルの毒々しさといったらなかった。おもわず身ぶるいして、イヤなものだなあと思った。 へんな言いかただけど、恐怖感ですね、一種の。それ以来、女の真っ黒なのに接すると、どうも嬉しくない。

僕の無毛症崇拝は多毛恐怖の反動じゃないかとも考えるのですがね。

中野: 十七世紀ごろのヨーロッパの貴族階級では、淑女はわざわざ剃り落とす習慣があったようだ。それから中国では、じっさいの無毛症もおおいけれど、昔はやはり剃る習慣があったようです。

むき卵みたいに、ツルリンとして、やや黄ばんだ肌に、タテにただ一線がすっとひかれただけの美しさ……を尊重したものらしい。

むかしの中国では、ちいさいうちに売買結婚がおこなわれていたらしいから、なるべく若く見せて高く売りつける必要上、剃ったのかもしれない。テン足もそうだけど、とにかく昔の中国は好色の最高クラスだった。

平井: 日本のオイラン(花魁)は、みんな毎日、その手入れをしていたものですね。やはり若くみせて値を高く、というコンタンだ。

ではどういうふうに手入れをしておったかというと、昔の絵草紙によく、自分のをのぞきこみながら、毛抜きで抜いている絵がでているけれど、あれはヤリテばあさんが厳重にやらせたものだそうですね。

歌麿や北斎なんかみても、オイランのは上のほうだけポッとあって、両脇がない。みんな同型で、手入れがなければできない毛相ですよ。

中野: もう二、三十年前のことだが、私は新宿の花街で道をとおりながらフトみあげると、二階で女が手入れしているのにぶつかったことがある。

鏡を前にたてて、お線香でジリジリ毛を焼き切っているようだった。あれは毛抜きよりは痛くないだろうね。(笑)

平井: しかし、そういう人工的なものは愚劣だね。

雑誌『女体画法』の記事を、伴田良輔「夜の雑誌たち」二見書房 2004 より孫引き

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<参考>
平井蒼太 - Wikipedia

続・泉目吉の変死人形

過去のエントリー「泉目吉の変死人形」の続き。前回の記事の時、そういえば橋爪紳也の「化物屋敷」(中公新書 1994)にも記述があったことを思い出したのだが、肝心の本が行方不明で取り上げることが出来なかった。今回、本棚の片隅に埋もれていたのを発見したので、目吉や変死体人形に関する記述部分を抜き書きしてみる。

なお、「化物屋敷」は日本の見世物興行としての「お化け屋敷」の歴史と構造を解説した本で、新書ながら非常に充実した内容でお勧めの一冊。ただ、以下の抜き書きのような見てきたかのような記述の出典が何なのか文章からでは良く判らない個所があるのが残念(一応、巻末には参考文献リストの記載はある)。

化物細工師、宇禰次と目吉

(前略)江戸の庶民は、夏ともなれば怪談の類を楽しみ、怪奇趣味を娯楽として受け入れていた。彼らの姿を見ていると、ファンタジーや怪談を好み、夏には決まってホラー映画を見てしまう現代を生きる自分たちの影を見るように思えてしかたがない。

 怪奇趣味が嵩ずるうちに、化物細工を珍重し、鑑賞して楽しむマニアックな趣味人が現れてくる。化物細工とは、その名の通り、化物や妖怪変化、あるいは幽霊の姿をかたどり巧妙に作られた人形のことだ。

 古い史料では、文化年間(1804-18)に四谷に住んでいた医師曳尾庵が残した随筆『我衣』のなかに、「カラクリ人形品目」という項がある。寛保元年(1741)に江戸で興行した竹田近江のカラクリ人形の演目を列記したものだ。そこに「狂言化物屋敷くわいらい師の人形からくり舟弁慶にかはる」という人形があったことが記されている。

「くわいらい師」とは傀儡師、すなわち人形使いのことである。まや「舟弁慶」は平知盛の幽霊が登場する有名な能の演目である。先の記述は、「人形遣いが舟弁慶にかわる」ということだが、いったいどういう仕掛けだったのか、実態はさっぱりわからない。ただ、これなどは後述する化物細工の流行の早すぎた先例とみなせるだろう。

 やがて歌舞伎の怪談話に人気が集まると、当世風の怪談をモティーフとしたリアルな化物細工が盛んに出まわるようになる。

 そのころ活躍し、有名であった細工師のひとりに宇禰次という男がいた。彼は木彫の細工物に絹や獣皮、あるいは魚の皮をかぶせて、グロテスクな人形をものした。ある時、宇禰次は葺屋町の河岸で奇怪な造り物を数多く見せる見世物興行を行った。浅草奥山で五尺あまりの人魚の見世物興行を行ったこともある。

 宇禰次は自分の手になる化物細工を単に見せて稼ぐだけでなく、販売も行ったらしい。玄治店の丸屋九兵衛という道具仲買商が、葺屋町で興業があった宇禰次の人形のひとつを入手、友人に見せていたという記録があるそうだ。また前出の歌舞伎役者尾上松助などは、実際の舞台で彼の作品を用いていたと伝えられている。

 宇禰次の人形以上に人気を集めたのが、人形師、二代目泉屋吉兵衛の作品である。初代の吉兵衛は、寺院建築などの装飾を請け負う彩色師であったが、どういうわけか人形師に転じた、この吉兵衛は目玉が異様に大きかったことから泉屋の目玉の吉、さらに略して泉目吉と呼ばれるようになった。

 この初代目吉のところに、ひとりに若者が住み込んでいた。少年時代から蝋人形の技術を親方から仕込まれた。のちにさらに工夫を凝らし、やがては初代を超える作品を制作するようになる。二代目を継いでからは、両国回向院前に住まいを、浅草仲店に店を構えて、芝居や茶番狂言用の化物人形、屋敷方への飾り人形を手掛けるようになった。その技の巧みさをもって、「似顔人形茶番道具の細工名人」として知れわたるようになる。

 二代目泉屋吉兵衛については、こんなエピソードが残されている。

 ちょうどそのころ怪談噺を得意とする林屋正蔵という落語の名人がいた。彼は高座に、すさまじい雰囲気を造りだすために、いろいろと策を講じた。ある時、目吉の手になる精巧な化物細工を舞台の上にならべてみることを思いつく。すえうと、これが大いに評判となった。

 この話には先がある。江戸のはずれ東大森に瓢仙という医者が居を構えていた。彼は、正蔵の高座が目吉の人形の効果によって格段に恐ろしく聞こえるようになったという噂を聞きつける。そこで思いたって、二代目目吉の飾り人形を手に入れ、自宅の奥庭にあるささやかな座敷に置いた。天保元年(1830)3月のことである。

 しかし単に化物人形を飾っておくだけでは満足しなかった。壁といわず天井といわず、ところかまわず怪しげな化物の戯画を描かせた。相当の凝り性であったらしい。化物で装飾した座敷の風評は、江戸にまで伝わる。わざわざ化物見物に訪れる物見高い客があいついだ。いつしかこの小亭は「大森の化物茶屋」という名で呼ばれる名所になってしまった。

 ただ瓢仙の化物茶屋の寿命は短かった。噂がまわりまわって、当時、東大森の代官を務めていた中村八太夫の耳に届く。部下の誰かが茶屋のにぎわいの様子を注進したらしいのだ。これを聞いた代官は、たとえ銭儲けではないにせよ、医者という職業にある者が見世物師のような真似をするのはけしからん、と怒りだす。即刻、化物茶屋を封鎖すべく命じた。さすがの奇人瓢仙も代官の通達に逆らう勇気はない。やむなくその年の七月には、化物茶屋も化物人形も、とっとと撤去してしまった。

 同じような例が作者不明の随筆『江戸塵拾』に紹介されている。赤坂にあった松平出羽守の屋敷に「化物の間」という一室があったというのだ。襖から張りつけ天井に至るまで、狩野梅笑に隙間なく化物を描かせた部屋であったという。化物趣味が庶民だけでなく大名にまで及んでいたことがわかっておおしろい。

<中略>

変死体の見世物

 しばしば開帳が行われた両国回向院の境内は、江戸における見世物興行のメッカであった。「寺島仕込怪物問屋」の成功をあと追いするかのように、新しいタイプの「場面型」化物屋敷が同じ回向院にお目見えする。

 天保九年(1838)の三月、回向院で井の頭弁天の開帳が行われた。この時に泉目吉の手になる新しい趣向の見世物小屋が出ている。「変死人形競」と銘打たれたことからもわかるように、死人の人形をならべたものであった。芝居に題材を求めた千吉の「怪物問屋」とは違う種類の恐怖の「場面」を求めたわけだ。

 小屋のなかには、不気味な変死体がいくつもならべられていた。用水には土左衛門が浮かんでいる。さらし首がこっちを睨みつけている。髪の毛で木の枝から吊された女の生首からは血がしたたっている。そのほか棺桶の裂け目から首を出す亡者を月光が照らしだす仕掛け、木に縛られた男の咽に短刀が突きささるとギロリと目を開く人形など、手の込んだカラクリも用意されていた。

 翌年の四月、同じ回向院境内で今度は「百鬼夜行妖怪尽」と題する見世物がかかっている。「百鬼夜行妖怪尽」と名乗ってはいるが妖怪変化がつぎつぎと登場するのではなく、目吉の「変死人形競」と同様、惨殺場面を再現する「変死体の見世物」であったようだ。木戸銭は二四文であった。

 そのころの慣習では、見世物の興業というと紅色の提灯をならべて吊すのがふつうであった。ところがこの小屋だけは違っていた。表には白張りの提灯が提げられている。また桜の造花のかわりに、白い紙を張りつけた樒の枝がかけわたしてあった。まるで葬礼のような雰囲気だ。

 入口から一歩場内に歩をすすめると、なかは昼間でも薄暗い。竹藪か雑木林をイメージした通路が続いている。たちこめた線香のにおいが鼻をつき、楽屋で鳴らすドロドロという太鼓の音が耳に障る。先にすすむと、まずはじめは空中に逆さまに浮遊する男女の幽霊が出迎えてくれる。

 次は獄門台の「場面」である。男女の生首が置かれている。男の方は断末魔の苦しみに歯を喰いしばり目を閉じているのだが、女の方はこの世に思いを残す執念深い目つきで見物人を睨みつけている。その先には、通路一面に血まみれの手首や足、生首や臓物が散乱している。オオカミに喰い散らかされた残骸であろう。それを跨いで越えようとするのをきっかけに、どこからかオオカミの遠吠えが聞こえる。横手にある植えこみが突如ガサガサッと音をたてる。いやがうえにも不気味な気分を盛り上げようとする演出である。

 そこを通りすぎると小池がある。池面に浮かんでいるのは土左衛門だろう。手も足も水にむくみ、目鼻もはっきりとはわからない。無残なものだ。あかりとりから射しこむこころもとない光線が、あたかも月光のような効果をおって、そのあさましい姿をあかるみに晒している。大切りには毒薬を飲まされたものであろうか、蚊帳のんかあでタラタラと吐血しながら悶え苦しんでいる女の人形が置かれている。

 これを過ぎると出口である。そこには烏帽子を被り神主の装束に身を包んだ男がいる。「サアお清めいたしましょう」と言いながら、お祓いのように榊の葉で客の頭を撫でてくれる。その姿が滑稽で、またそれまでが恐かったこともあって、緊張と緩和のその落差に入場者は笑いださずにはいられなかったという。

身投げ三人娘人形

 嘉永元年(1848)、二代目泉目吉は死体見世物の決定版ともいえる興業を打つ。前年にあった現実の事件「三人娘水死一件」を得意の変死人形にアレンジして、「身投げ三人娘人形」と命名して公開したところ、大好評を得る。

 木戸銭を払って小屋の中に入ると、稲荷川の岸を模した「場面」が用意されている。そこに三人の娘の土左衛門が、たがいに細帯で身を結びあったまま仰向けに浮かんでいる。四肢や顔は水を吸って腫れあがっている。着衣の乱れ具合といい、死体が傷んだ状況といい、現実の死体発見現場をそのままに造られている。

 死骸の上には本物の烏が二羽とまり、人形の腹のあたりをついばんでいる。水死体の人形のはらわたにドジョウを入れておき、それを烏が食べているだけのことだが、それがあたかも内臓を喰いあらしているように見えるのだ。よく考えられた演出である。

 この「身投げ三人娘人形」が先に紹介した死体見世物の事例とちがうのは、現実の事件をモデルとしている点だ。テレビや映画、グラフ誌のない時代である。誰もが知っている著名な事件の現場をそのまま見世物にしようという発想が、大衆の支持を得た。あまりに平和な時代が続きすぎた江戸の人々は、猟奇的ともいえる事件現場を見て恐怖を楽しんだのである。

「化物屋敷」橋爪紳也著 中公新書 1994 より

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あと、前回の記事で、為永春水の「春色恵之花」に泉目吉の店の店頭の様子が挿絵として掲載されているという古河三樹「図説 庶民芸能—江戸の見世物」の記述を紹介したが、早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」にて「春色恵の花」が公開されているを知ったので、該当の図版を以下に挙げておく。なお、図版は渓斎英泉によるもの。

店頭には幽霊の活人形(?)がディスプレイされ画面右端には以前に取り上げた「化物蠟燭」の看板が見える。

「春色恵の花」狂訓亭主人著 渓斎英泉画

出典:古典籍総合データベース : 春色恵の花. [初],2編 / 狂訓亭主人 著 ; 渓斎英泉 画

<参考>
ofellabuta: 泉目吉の変死人形
ofellabuta: 泉目吉の幽霊蠟燭

2012/07/01

Design of Boris Anisfeld

Boris Anisfeld 006

Boris Anisfeld 005

Boris Anisfeld 004

Boris Anisfeld 003

Boris Anisfeld 002

Boris Anisfeld 001

NYPL Digital Gallery : Results - Anisfeld, Boris Israelevich
(via ☉rbs of Zénith ۞)

ニューヨーク公共図書館(NYPL)のデジタルギャラリーより、ロシア出身の画家で舞台美術家のボリス・アニスフェリド(Boris Anisfeld 1878–1973)による舞台衣装のデザイン画。

<参照>
Boris Anisfeld - Wikipedia, the free encyclopedia
Boris Anisfeld / catalogue raisonné

泉目吉の幽霊蠟燭

横山泰子「妖怪手品の時代」を読んでいたら江戸時代の人形師、泉目吉に関する記述を見つけたので抜き書き。
泉目吉については過去のエントリー「泉目吉の変死人形」でも取り上げている。

文中に出てくる林屋正蔵(初代)は怪談噺の元祖とも呼ばれた江戸時代の落語家。現在その名跡は林家三平の息子のこぶ平が継いでる。

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 都楽は三笑亭可楽の弟子だったが、同門の林屋正蔵も化物咄を売り物にしていた落語家で、高座で焼酎火をともしたり、化け物の人形を使ったりしたものと思われる。大仕掛けの化物咄を披露するには、適切な上演スペースが不可欠である。そこで正蔵は文化十四年(1817年)に江戸の盛り場両国に寄席を取得し、日本国中からやってくる旅行者たちを怖がらせ驚かせていた。旅行者は常に入れ替わるので、何度も繰り返し仕掛けを見て飽きる客層ではない。この点は化物咄にはもってこいだった。

 正蔵に協力したのは人形師泉目吉である。目吉は幽霊や生首を作るのを得意とし、正蔵のほか、尾上松助とも提携していたらしい。自作の人形を見世物にしたり、浅草仲見世に店を出して「化物蠟燭」を販売していた。天保七年(1836年)刊の為永春水作『春色恵の花』(人情本)では、目吉の店で買った化物蠟燭を使って男性が女性を驚かせる場面がある。

障子にありありとうつる火影ともろともに髪ふる乱せし女の幽霊。お糸は見るよりワツトばかり、一声たてゝ夢中になり、並べてまうけし半次郎が夜着の中へ逃げ込ミければ、半次郎もおそるゝ風情。息をころして二人とも夜着引かぶりてやゝしばらく身をよせあふて伏たりけるが、やゝありて半次郎はお糸にむかひ 半「こわかつたかへ(略)ナニサもう蠟燭へ火が移つたから幽霊はもえてしまつたアナ 糸「幽霊かもえたとはへ 半「アハ…正体を見せやうかへ ソレト障子をあければ手職にともせし蠟燭の傍ハらにある化物ろうそくの袋を取ツて 半「それ御覧じろ 中店で売る泉目吉が新工夫。なんとうまい細工だろう。

障子に映る女の幽霊を見て、お糸は驚き半次郎にすがりつく。しばらく両人身を寄せ合っていたが、やがて半次郎が「正体を見せよう」と、化物蠟燭の袋を見せる。泉目吉の店で販売中の、幽霊を出現させる蠟燭だったのだ。化物蠟燭は、過去の伝授本にも解説されているように難しい仕掛けではないが、事前に準備しなければならない。しかし、店頭販売されていれば、作るのが面倒な人でも大丈夫だ。こうして妖怪手品は商品化し、普及していった。参考図版として、江戸末期の「ゆうれへろうそくの伝」(紙片)を付した(上図)。幽霊蠟燭の材料と一緒に売られたものか、こうした資料は残りにくいので貴重である。

「妖怪手品の時代」横山泰子著 青弓社 2012 より

妖怪手品の時代
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泉目吉が販売していたとされる「幽霊蠟燭」がどのようなものであったか。同書に記述があるのでこれも抜き書きしておく。

江戸期に流行した妖怪手品に「幽霊蠟燭」(化物蠟燭)というものがあった。数々の伝授本に種明かしがあるが『座敷芸手妻操(ざしきげいてづまからくり)』(天明頃に刊行か、著者不明)では、「化物蠟燭の手妻」として、

蠟燭のしんを少しとぼし、其とぼし口へ油をつけたる紙そくのしりをさし込て、其の紙そくの前へ、幽霊にても鬼にても、くろい紙にて形をきり、竹にはさみて、蠟燭の蠟へ差込、障子より一尺五寸程間を置て立てをき、其紙そくへ火をともし候へば、其影障子へうつり、化物の様に見へ申候。

と述べている。蠟燭の芯に火をともし、油をつけた紙燭の端を差し込む。次に幽霊や鬼などの型紙を竹に挟み、蠟燭の蠟に差し込んで紙燭に火をつけると、化け物の形の影が障子などに映るという手品である。

「妖怪手品の時代」横山泰子著 青弓社 2012 より

bakemono-rosoku  化物蝋燭

上図は江戸時代の「化物蠟燭」の広告。(出典:早稲田大学図書館:古典籍総合データベース

<参考>

ofellabuta: 泉目吉の変死人形