「東京のバックサイト ・・・スピ・グラ潜入記・・・」写真・文:高橋正雄
「あまとりあ」1953年07月号 あまとりあ社 より
高橋鐵の性科学雑誌「あまとりあ」の1953年7月号より、1950年代初期の東京の性風俗を写したルポタージュ写真記事「東京のバックサイト ・・・スピ・グラ潜入記・・・」。温泉マークにしけこむカップルや米軍基地にたむろするパンパン。青線やおかまなどいろいろ興味深い。
「東京のバックサイト ・・・スピ・グラ潜入記・・・」写真・文:高橋正雄
「あまとりあ」1953年07月号 あまとりあ社 より
高橋鐵の性科学雑誌「あまとりあ」の1953年7月号より、1950年代初期の東京の性風俗を写したルポタージュ写真記事「東京のバックサイト ・・・スピ・グラ潜入記・・・」。温泉マークにしけこむカップルや米軍基地にたむろするパンパン。青線やおかまなどいろいろ興味深い。
「日本怪奇幻想紀行〈4之巻〉芸能・見世物録」(同朋舎 2000)に収録された、木下直之 「見世物から江戸を覗く」に人形師泉目吉による変死体人形の見世物に関する記述があったので抜き書きしておく。
文中の出典元として記載されている「藤岡屋日記」とは、「神田御成道で古本屋を商う傍ら、市井のニュースを集めては切り売りした藤岡屋須藤由蔵の日記」のことで、この須藤由蔵なる人物もなかなか気になる人物 (Wikipedia : 須藤由蔵) 。
一年前の「三人娘身投げ一件」とは弘化四年(1847)に起きた、江戸の大川(現在の隅田川)に若い娘三人が腰帯で互いの腕を結び付けた状態で水死体として発見された事件で、当時大変な話題になった事件のこと。
烏が死骸の腹をつつく —— 変死人形
『藤岡屋日記』には、翌嘉永元年(1848)六月、回向院で行われた京都嵯峨釈迦如来開帳に当て込んで。一年前の「三人娘身投げ一件」が見世物になったことを伝える記事があったらしい。らしいというのは、『藤岡屋日記』の原本は大正十二年(1923)の関東大震災で焼失しており、現在に伝わるものはその直前に東京市によって製作された筆写本である。惜しくも、嘉永元年上半期部分を収録した第二十巻が欠けている。朝倉夢声がその著作『見世物研究』(1928)の中で、つぎのように書いたのは、彼が原本第二十巻を目にしていたからに違いない。
「かく世評の高かつた身投げ一件を、目吉が得意の変死人形に細工したので、回向院境内で興行したのは、六月の下旬であつた。さて二十四文の礼銭を払つて木戸を這入ると、稲荷川岸を模した水中に、三人の娘土左衛門が、互に細帯で身を繋ぎ合つたまゝ、仰けに浮上つてゐる。其水脹れした顔面から四肢、さては着物や帯に至る迄、昨年の一件物に髣髴たるのみか、死骸の上にとまつた烏二羽が、水脹れした腹をつゝくので、更に凄惨の気を漲らせるのであつた。是は水死人形の腹に、泥鰌を入置いたものを、足を結びつけられた烏の食ふのが、さながら腹の肉を啄むやうに見えるのであつた。『藤岡屋日記』に此見世物を記して、大入によく詰込んで烏まで食もたれするゑらい評判。とある」
想像するのもおぞましい見世物だが、泉目吉という人形師は確かにそんな変死人の人形を売り物にしていた。初代林家正蔵がはじめた怪談噺の小道具や仕掛けをつくったことでも知られる。すでに十年前、天保九年(1838)三月十七日より回向院ではじまった井の頭弁財天開帳で、参詣客相手の目吉の見世物が評判になった。斉藤月岑は『武江年表』に「境内にて人形師泉目吉の細工にて、色々の変死人を作り見せものとす」と書き入れている。
四壁庵茂蔦という人物に『わすれのこり』という随筆がある。そこでも、泉目吉のこれまたぞっとするような世界が語られている。
「泉目吉、本所回向院前に住居して人形師なり、此者幽霊生首等をつくるに妙を得たり、天保の初め造るところの物を両国にて見せたり、其品には土左衛門首縊り獄門女の首を其髪にて木の枝に結ひ付け、血のしたゝりしさま、又亡者を桶に収めたるに、蓋の破れて半あらはれたる、また人を裸にし、木に結ひつけ数ヶ所に疵を付、咽のあたりに刀を突立てたるまゝ、惣身血に染みて目を閉ちず、歯を切りたる形ちは見る者をして、夏日も寒からしむ、婦人小子は半見ずして迯出るものおほし、されどもこわいもの見たがる人情にて、却つて大あたりせし、此類ひの見せもの外にも多く出来たり」
どうやらこんな悪趣味な見世物に携わった人形師は、泉目吉ひとりではなかったようだ。
「見世物から江戸を覗く」木下直之 (日本怪奇幻想紀行〈4之巻〉芸能・見世物録 同朋舎 2000)より
この泉目吉なる人形師について、古河三樹「図説 庶民芸能—江戸の見世物」にも記述があった。
以下に、先に抜き書きした木下直之「見世物から江戸を覗く」にも引用されている四壁庵茂蔦の文章の引用が続く。化物細工の名人
当時、化物細工の製作に奇巧の腕をふるって大評判になったのは、二代目の目玉の吉兵衛といわれ、為永春水が「似顔人形茶番道具の細工名人と聞えたる泉目吉」といった通り、彼は当時、江戸八百八町に誰知らぬ者のないほどに名高い人形細工人であった。目吉の初代は諸寺色彩師の泉屋吉兵衛。目が大きかったので目玉の吉兵衛と言われ、略して目吉。人形の際物だけで、化物製作には手をだしていない。
二代目の目吉は、少年の頃から、初代目吉の家に住み込み、親方の作る蝋人形の技術を身につけ、さらに工夫をこらして初代以上の作品を製作するようになったといわれ、本所回向院門前に住み、芝居や茶番狂言の怪物の人形小道具の類或いは屋敷方の飾人形などを引受ける店を浅草仲見世に開いて生業とすていた。春水の『春色恵の花』(天保七年版)にはその店頭の図が挿画に載せられている。
天保九年三月に両国の回向院で、井の頭弁財天の開帳があって、いろいろな見世物小屋が軒をならべ、見物人が群集した。中でも評判になったのは、泉目吉作変死人形競であった。
「図説 庶民芸能—江戸の見世物」古河三樹 著 雄山閣 1982 より
以前、前のブログで伊藤晴雨の「風俗遷史」という江戸時代の風俗を描いた図をとりあげた時、当時の見世物の一つとして描かれた「眼力」という飛び出した目玉で石を持ち上げている芸が描かれていて(※上図)、はたしてこれは本当に実在した芸なのだろうか?と気になっていたのだが、今日、たまたま古本屋で見かけた古河三樹著「図説庶民芸能—江戸の見世物」(雄山閣 19820)という本の中で似たような芸を見せる見世物についての記載があった。
目出し小僧
目出し小僧という奇芸の主が名古屋大須の見世物興行にかかったのは文政十二年(1829)十一月のことである。これは、扇の要で外目じりをおすと、たちまち目玉がヒョイと飛びだし、また自由にしまえるという奇妙な芸を見せるので、たちまちの大評判天保元年(1830)春には、江戸に下って両国の観場に出演した。当時の好事家の大名、松浦静山は、その看板を見て不思議に思い、侍医の子息を実地調査に遣わしたが、その報告によると、「年二十一、二と覚しく、其容唐子の姿をなせり。踞床の前に鼓を置きて、自ら是を鳴らす、是見物に始りを告ぐるなり。某その目を見るに恍惚として晴光なし、開くこと常人より少くして、眼辺凹なり。熟視すれば眼疾の人にことならず。始め目玉を出すには、指にて眦を少しく推せば、晴即ち出ず。形大鯛の目玉に能く似たり。ただ黒めは翳りありて、白目は灰白色なり。又目玉の全く出たる見れば、白みのみ多く黒みはわずかなり。その出たる間は、直視しても少しも瞳動なし。又、傍より見れば、疾視みているものの如し。これより又鼓を打つこと八九声にして、眼を入るるといい、指を用ひず目を張れば、晴入って故の如し。」であった。
それから左の眼を同じように出し入れしてみせ、さらに両眼を出す。その様子は「張子達磨の円眼」によく似ていた。木戸番の話では五島宇久の出身だということだが、言葉のなまりなどもなく近在の者のように思われた、ということである。これには、さすがの江戸ッ子たちも驚いたようである。
眼力太郎
しかし、天保十二年(1841)夏に両国広小路で興行した目出度男眼力太郎は、目出小僧よりさらに珍奇な芸を見せた。
この男は、羽州新庄領二間村、百姓林助の孫で本名は長次郎。七、八歳の頃からいかなるわけか両眼を自由に出し入れできるようになった。目玉の大きさは一寸余、その上に細網をかけ銭五貫文ぐらいの目方をさげられるのである。それを、本所松坂町に住む谷五郎という男が二年間の約束で雇い、江戸へ連れてきて見世物にしたのであった。
眼力男・長次郎は、ふだんは常人とすこしもかわらない眼をしているが、いざという時にイキむと、目玉がたちまち蟹のように飛び出してくる。それに小石を糸でくくってかけるのが小手調べで、次に右の目玉に三組杯、さらには重箱、徳利などを糸でくくってぶらさげ、最後には下座の鳴物に合わせて両目玉を自由自在に出し入れする。まさに古今絶無の芸だということで、大名屋敷や旗本邸などで競って呼びよせて見物した。
「図説庶民芸能—江戸の見世物」古河三樹著 雄山閣 1982 より
ここで解説されている「眼力太郎」はまさに伊藤晴雨の描いた「眼力」芸の持ち主のことだと思われる。この本(「図説庶民芸能—江戸の見世物」)には出典の記載がないので、この「眼力太郎」が当時のどのような記録に記載されているのかは不明なのが残念。「目出し小僧」の松浦静山からの引用は「甲子夜話」であろうか?
長尾三郎の寺山修司の評伝「虚構地獄 寺山修司」(講談社 1997)で、寺山修司が三島由起夫の自決を知って「天井桟敷」のメンバーに語ったとされる話が興味深かったので抜き書き。
寺山は、三島由紀夫を畏敬し、ライバル視していたが、二人は『潮』(1970年7月号)で対談したことがあった。
七〇年前後は、若者たちの叛乱が日本中を震撼させていた時代だった。
— 中略 —
三島由紀夫は「新左翼は政治的な言葉と文学的な言葉を混同しているところに彼らの破綻がみえている」と指摘したが、寺山は「乱世の中におもしろ味がある」と逆におもしろがっていた。
三島:でも、それをおもしろがっちゃいけないんじゃないのかね。それでは文学もダメになるし、政治もダメになるんだよ。
寺山:両方ダメになってもいいんじゃないかっていう感じがあるんですよ(笑)
三島はこの対談の四ヶ月後の11月25日、「盾の会」を率いて自衛隊に突入し、決起を訴えたが叶わず、割腹自殺をとげた。
その壮烈な死を知って、寺山は「天井桟敷」のメンバーにこういった。
「三島は季節を間違えたな。桜の季節にやるべきだったんだ。」
さらに寺山は「三島は演劇を知らない」と言った。
「市ヶ谷の自衛隊で演説したとき、三島は舞台監督の経験がないから、声を隊員たちに伝える手段を考えることまでは思いつかなかった」
「虚構地獄 寺山修司」長尾三郎 著 講談社 1997 より
星野長一著「明治裸體寫眞帖 - 星野長一コレクション」有光書房 1970 より、大正時代に撮られたと思われる屋外での芸者遊びの場面を撮した写真。出典元によると、“温泉地での「浅い川」と称する芸者遊び。歌、三味線に合わせ芸者が踊り、また裾を捲って飛び上がる。ここに踊るのは半玉。”とのことだが、一般にお座敷芸で云われる「浅い川」とは芸者が川を渡ろうとして着物の裾を捲るのだがだんだんと川が深くなってきて裾をどんどんたくし上げていくという踊り?のことを云うらしいので、元著者の勘違いなのか、それとも「浅い川」のバリアントの一つなのかは定かではない。