岩田専太郎というと、美人画で知られる戦後日本を代表する挿絵画家だが、その岩田専太郎が晩年の1972年に家の光協会から出版した「わが半生の記」という自叙伝を読んでいたら、岩田専太郎が精神病院に入るはめになったことを面白おかしく書いていたのでメモしておく。
たまたま友人の川口(松太郎)が、震災後新しくできた、大阪のプラトン社という出版社につとめていた。プラトン社からは、『女性』という婦人雑誌と、『苦楽』という娯楽雑誌が出される計画で、当時文壇の大家だった小山内薫氏と直木三十五氏が相談役の形をとり、編集の実務に川口が当たっていた。
その川口が、久しぶりに会ったとき、
「お前も大阪へこないか。さし絵を描く画家に不自由しているんだ」
と、いつもの明るい口調で誘ってくれた。
(中略)
さし絵の担当では、山名文夫、山六郎両氏がいて、フレッシュな絵を描いていた。私も、両氏の影響をうけて、新しい線を使った時代ものの絵を描いたが、その絵の評判がよくて、日ごろ無口な直木さんが、
「東京で会う人たちが、君の絵をほめていた」
といってくれたことを覚えている。
その直木さんが、あるとき、
「この男は、気狂い病院へ入れられたぐらいだから、人間は、たしかだ」
と、妙なほめ方をした。
その当時、私は、妙に反抗的だった。さし絵の仕事で、ようやく食えるようにはなっていたが、なぜか世の中の不合理や不条理に対して腹が立ってしかたがなかったのである。
たまたま通りかかった交叉点で、交通巡査と言い争うことになった。なんの理由だったか忘れたが、相手の言い方がたしかに間違っているのである。しかし向こうも、制服の手前、簡単にはひっこまない。こちらも頑として聞かないから、そのまま警察へひっぱられていった。
それがますます、私の反抗心をつのらせる結果になった。中でも、安楽椅子にふんぞり返って、見下したような態度で質問する係官が気にくわなかったから、相手の質問に、一々反対の答えをした。するとなにを思ったか、そいつは鳥の羽を手にすると、私の鼻の頭のところへもってきて、これをくるくる回すのである。
むかっとした。
この野郎! と思ったから、わざと、目玉を寄せて、自分の鼻の頭のところを眺めた。まるでバカみたいな顔になる。
そのまま、私は精神病院へ送られた。
もう一度、院長が診察して、
「あんたは、すぐ帰れるよ」
といってくれたが、翌日にも帰されるはずが、結局、三ヶ月近くとめられた。
このときの経験で、自分がいくらまともなことをいっても、ヘタをするとまるでダメだということが、身にしみてわかった。あれから五十年、いまだに気ちがいが"再発"しないところをみると、どうやら大丈夫らしい。
「わが半生の記」 岩田専太郎著 家の光協会 1972年 より
Wikipedia : 岩田専太郎
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