引き続き、岩田専太郎の自叙伝「わが半生の記」より、今度は岩田専太郎が大正12年の関東大震災に罹災したときの記述をメモ。
友人の新関健之助の安否を確かめるべく、多数の死体の浮かぶ山谷堀を焼け残った水道の鉄管を伝って渡る場面はなかなかにドラマチック。
関東大震災のときは、東京の街々が一面の火の海になって燃え続ける凄まじい姿を眺めて、呆然と上野の山に二夜を明かして朝を迎えたが、山下にある下谷区役所も遂に燃え上がって、焼けたトタン板などが飛んでくるようになったので、ここも安全を期し難いと思った私は、山つづきの谷中を抜け日暮里のあたりまでのがれた。
日暮里と田端の中間にあった山手樹一郎の家が、昨日からの風向きと火の手の様子では、焼けずにすんでいるのではないかと思ったからだった。さいわい、山手の家は日をまぬかれていた。
着のみ着のまま、食べることさえ忘れていた私は、やっと炊きたてのご飯と、安眠とを、ここでめぐまれた。
「今戸あたりは、火の回りが早かったらしい、新関がまだ顔を見せないのが心配だ! 一緒に見に行こう……」
と、翌日の朝になって、山手がいった。
足ごしらえをした二人は、むすび飯なぞを用意して家を出たが、少し行くと、
「新関のことも心配なのだが、ほかに一軒よりたいところがるのだ。すまないが、君だけひと足先に今戸へ行ってくれないか、俺もあとからすぐ行くから……」
と、何か浮かない顔色の山手がいった。
自分からいい出しておきながら……と思いはしたが余燼の残る焼け野原は、他人の思惑まで気にかける余裕を私に与えなかった。
ひとりになって、三の輪を抜け、山谷堀のところまで来てみると、今戸橋は焼け落ちていた。木製の橋は跡かたもなかったが、水道の鉄管だけが残っている。
やむを得ないから、どこか遠回りをしようと思ったが、見ると、その鉄管の上を這い渡る人がいた。遠回りをするといっても、一望焼け野原のなかを流れる山谷堀には、焼け残った橋が見当たらない。私も、その人に習って鉄管の上を這うことにした。
掘割には、焼けて沈んだ船の間々に、火に追われて飛びこんだまま死んだのであろう、焼かれた上に水死した、みるも無残な男女の死骸が、いくつも、いくつも、浮かんでいた。
見まいとしても、ともすれば滑り落ちそうになる丸い鉄管に抱きついて、這っているのだから、いやでも下を見ないではすまされない。つらい思いだった。
やっと、たどりついた新関の家の焼け跡には、千葉県のなにがしへ避難すると、消し炭でかすかに標された木片が立ててあった。無事だったことだけは、それでわかった。
その焼け跡で、山手の来るのを暫く待ったが、そのときは遂に会えなかった。
私に別れて、山手が捜しに行ったのは、彼の恋人の安否だったのが、あとになってわかった。
親友の生死も気にかかるが、それよりも、もっと気にかかる人のあったことを、そのころの私たちは、山手のために祝福した。
そのときの恋人が、現在の山手夫人であることを、さらに私は祝福したい。自分のことにひきくらべて……
それも、遠い過去のこと、少年もののさし絵や漫画を描いていたその新関健之助も、いまではすでに故人になった。
「わが半生の記」 岩田専太郎著 家の光協会 1972年 より
文中に登場する新関健之助は「トラノコトラチャン」などで知られる漫画家、また山手樹一郎は「桃太郎侍」などの時代小説で知られる作家。なお、新関健之助の「トラノコトラチャン」は近代文学ライブラリで公開されているのでネットで読むことができる。
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