2012/07/02

続・泉目吉の変死人形

過去のエントリー「泉目吉の変死人形」の続き。前回の記事の時、そういえば橋爪紳也の「化物屋敷」(中公新書 1994)にも記述があったことを思い出したのだが、肝心の本が行方不明で取り上げることが出来なかった。今回、本棚の片隅に埋もれていたのを発見したので、目吉や変死体人形に関する記述部分を抜き書きしてみる。

なお、「化物屋敷」は日本の見世物興行としての「お化け屋敷」の歴史と構造を解説した本で、新書ながら非常に充実した内容でお勧めの一冊。ただ、以下の抜き書きのような見てきたかのような記述の出典が何なのか文章からでは良く判らない個所があるのが残念(一応、巻末には参考文献リストの記載はある)。

化物細工師、宇禰次と目吉

(前略)江戸の庶民は、夏ともなれば怪談の類を楽しみ、怪奇趣味を娯楽として受け入れていた。彼らの姿を見ていると、ファンタジーや怪談を好み、夏には決まってホラー映画を見てしまう現代を生きる自分たちの影を見るように思えてしかたがない。

 怪奇趣味が嵩ずるうちに、化物細工を珍重し、鑑賞して楽しむマニアックな趣味人が現れてくる。化物細工とは、その名の通り、化物や妖怪変化、あるいは幽霊の姿をかたどり巧妙に作られた人形のことだ。

 古い史料では、文化年間(1804-18)に四谷に住んでいた医師曳尾庵が残した随筆『我衣』のなかに、「カラクリ人形品目」という項がある。寛保元年(1741)に江戸で興行した竹田近江のカラクリ人形の演目を列記したものだ。そこに「狂言化物屋敷くわいらい師の人形からくり舟弁慶にかはる」という人形があったことが記されている。

「くわいらい師」とは傀儡師、すなわち人形使いのことである。まや「舟弁慶」は平知盛の幽霊が登場する有名な能の演目である。先の記述は、「人形遣いが舟弁慶にかわる」ということだが、いったいどういう仕掛けだったのか、実態はさっぱりわからない。ただ、これなどは後述する化物細工の流行の早すぎた先例とみなせるだろう。

 やがて歌舞伎の怪談話に人気が集まると、当世風の怪談をモティーフとしたリアルな化物細工が盛んに出まわるようになる。

 そのころ活躍し、有名であった細工師のひとりに宇禰次という男がいた。彼は木彫の細工物に絹や獣皮、あるいは魚の皮をかぶせて、グロテスクな人形をものした。ある時、宇禰次は葺屋町の河岸で奇怪な造り物を数多く見せる見世物興行を行った。浅草奥山で五尺あまりの人魚の見世物興行を行ったこともある。

 宇禰次は自分の手になる化物細工を単に見せて稼ぐだけでなく、販売も行ったらしい。玄治店の丸屋九兵衛という道具仲買商が、葺屋町で興業があった宇禰次の人形のひとつを入手、友人に見せていたという記録があるそうだ。また前出の歌舞伎役者尾上松助などは、実際の舞台で彼の作品を用いていたと伝えられている。

 宇禰次の人形以上に人気を集めたのが、人形師、二代目泉屋吉兵衛の作品である。初代の吉兵衛は、寺院建築などの装飾を請け負う彩色師であったが、どういうわけか人形師に転じた、この吉兵衛は目玉が異様に大きかったことから泉屋の目玉の吉、さらに略して泉目吉と呼ばれるようになった。

 この初代目吉のところに、ひとりに若者が住み込んでいた。少年時代から蝋人形の技術を親方から仕込まれた。のちにさらに工夫を凝らし、やがては初代を超える作品を制作するようになる。二代目を継いでからは、両国回向院前に住まいを、浅草仲店に店を構えて、芝居や茶番狂言用の化物人形、屋敷方への飾り人形を手掛けるようになった。その技の巧みさをもって、「似顔人形茶番道具の細工名人」として知れわたるようになる。

 二代目泉屋吉兵衛については、こんなエピソードが残されている。

 ちょうどそのころ怪談噺を得意とする林屋正蔵という落語の名人がいた。彼は高座に、すさまじい雰囲気を造りだすために、いろいろと策を講じた。ある時、目吉の手になる精巧な化物細工を舞台の上にならべてみることを思いつく。すえうと、これが大いに評判となった。

 この話には先がある。江戸のはずれ東大森に瓢仙という医者が居を構えていた。彼は、正蔵の高座が目吉の人形の効果によって格段に恐ろしく聞こえるようになったという噂を聞きつける。そこで思いたって、二代目目吉の飾り人形を手に入れ、自宅の奥庭にあるささやかな座敷に置いた。天保元年(1830)3月のことである。

 しかし単に化物人形を飾っておくだけでは満足しなかった。壁といわず天井といわず、ところかまわず怪しげな化物の戯画を描かせた。相当の凝り性であったらしい。化物で装飾した座敷の風評は、江戸にまで伝わる。わざわざ化物見物に訪れる物見高い客があいついだ。いつしかこの小亭は「大森の化物茶屋」という名で呼ばれる名所になってしまった。

 ただ瓢仙の化物茶屋の寿命は短かった。噂がまわりまわって、当時、東大森の代官を務めていた中村八太夫の耳に届く。部下の誰かが茶屋のにぎわいの様子を注進したらしいのだ。これを聞いた代官は、たとえ銭儲けではないにせよ、医者という職業にある者が見世物師のような真似をするのはけしからん、と怒りだす。即刻、化物茶屋を封鎖すべく命じた。さすがの奇人瓢仙も代官の通達に逆らう勇気はない。やむなくその年の七月には、化物茶屋も化物人形も、とっとと撤去してしまった。

 同じような例が作者不明の随筆『江戸塵拾』に紹介されている。赤坂にあった松平出羽守の屋敷に「化物の間」という一室があったというのだ。襖から張りつけ天井に至るまで、狩野梅笑に隙間なく化物を描かせた部屋であったという。化物趣味が庶民だけでなく大名にまで及んでいたことがわかっておおしろい。

<中略>

変死体の見世物

 しばしば開帳が行われた両国回向院の境内は、江戸における見世物興行のメッカであった。「寺島仕込怪物問屋」の成功をあと追いするかのように、新しいタイプの「場面型」化物屋敷が同じ回向院にお目見えする。

 天保九年(1838)の三月、回向院で井の頭弁天の開帳が行われた。この時に泉目吉の手になる新しい趣向の見世物小屋が出ている。「変死人形競」と銘打たれたことからもわかるように、死人の人形をならべたものであった。芝居に題材を求めた千吉の「怪物問屋」とは違う種類の恐怖の「場面」を求めたわけだ。

 小屋のなかには、不気味な変死体がいくつもならべられていた。用水には土左衛門が浮かんでいる。さらし首がこっちを睨みつけている。髪の毛で木の枝から吊された女の生首からは血がしたたっている。そのほか棺桶の裂け目から首を出す亡者を月光が照らしだす仕掛け、木に縛られた男の咽に短刀が突きささるとギロリと目を開く人形など、手の込んだカラクリも用意されていた。

 翌年の四月、同じ回向院境内で今度は「百鬼夜行妖怪尽」と題する見世物がかかっている。「百鬼夜行妖怪尽」と名乗ってはいるが妖怪変化がつぎつぎと登場するのではなく、目吉の「変死人形競」と同様、惨殺場面を再現する「変死体の見世物」であったようだ。木戸銭は二四文であった。

 そのころの慣習では、見世物の興業というと紅色の提灯をならべて吊すのがふつうであった。ところがこの小屋だけは違っていた。表には白張りの提灯が提げられている。また桜の造花のかわりに、白い紙を張りつけた樒の枝がかけわたしてあった。まるで葬礼のような雰囲気だ。

 入口から一歩場内に歩をすすめると、なかは昼間でも薄暗い。竹藪か雑木林をイメージした通路が続いている。たちこめた線香のにおいが鼻をつき、楽屋で鳴らすドロドロという太鼓の音が耳に障る。先にすすむと、まずはじめは空中に逆さまに浮遊する男女の幽霊が出迎えてくれる。

 次は獄門台の「場面」である。男女の生首が置かれている。男の方は断末魔の苦しみに歯を喰いしばり目を閉じているのだが、女の方はこの世に思いを残す執念深い目つきで見物人を睨みつけている。その先には、通路一面に血まみれの手首や足、生首や臓物が散乱している。オオカミに喰い散らかされた残骸であろう。それを跨いで越えようとするのをきっかけに、どこからかオオカミの遠吠えが聞こえる。横手にある植えこみが突如ガサガサッと音をたてる。いやがうえにも不気味な気分を盛り上げようとする演出である。

 そこを通りすぎると小池がある。池面に浮かんでいるのは土左衛門だろう。手も足も水にむくみ、目鼻もはっきりとはわからない。無残なものだ。あかりとりから射しこむこころもとない光線が、あたかも月光のような効果をおって、そのあさましい姿をあかるみに晒している。大切りには毒薬を飲まされたものであろうか、蚊帳のんかあでタラタラと吐血しながら悶え苦しんでいる女の人形が置かれている。

 これを過ぎると出口である。そこには烏帽子を被り神主の装束に身を包んだ男がいる。「サアお清めいたしましょう」と言いながら、お祓いのように榊の葉で客の頭を撫でてくれる。その姿が滑稽で、またそれまでが恐かったこともあって、緊張と緩和のその落差に入場者は笑いださずにはいられなかったという。

身投げ三人娘人形

 嘉永元年(1848)、二代目泉目吉は死体見世物の決定版ともいえる興業を打つ。前年にあった現実の事件「三人娘水死一件」を得意の変死人形にアレンジして、「身投げ三人娘人形」と命名して公開したところ、大好評を得る。

 木戸銭を払って小屋の中に入ると、稲荷川の岸を模した「場面」が用意されている。そこに三人の娘の土左衛門が、たがいに細帯で身を結びあったまま仰向けに浮かんでいる。四肢や顔は水を吸って腫れあがっている。着衣の乱れ具合といい、死体が傷んだ状況といい、現実の死体発見現場をそのままに造られている。

 死骸の上には本物の烏が二羽とまり、人形の腹のあたりをついばんでいる。水死体の人形のはらわたにドジョウを入れておき、それを烏が食べているだけのことだが、それがあたかも内臓を喰いあらしているように見えるのだ。よく考えられた演出である。

 この「身投げ三人娘人形」が先に紹介した死体見世物の事例とちがうのは、現実の事件をモデルとしている点だ。テレビや映画、グラフ誌のない時代である。誰もが知っている著名な事件の現場をそのまま見世物にしようという発想が、大衆の支持を得た。あまりに平和な時代が続きすぎた江戸の人々は、猟奇的ともいえる事件現場を見て恐怖を楽しんだのである。

「化物屋敷」橋爪紳也著 中公新書 1994 より

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あと、前回の記事で、為永春水の「春色恵之花」に泉目吉の店の店頭の様子が挿絵として掲載されているという古河三樹「図説 庶民芸能—江戸の見世物」の記述を紹介したが、早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」にて「春色恵の花」が公開されているを知ったので、該当の図版を以下に挙げておく。なお、図版は渓斎英泉によるもの。

店頭には幽霊の活人形(?)がディスプレイされ画面右端には以前に取り上げた「化物蠟燭」の看板が見える。

「春色恵の花」狂訓亭主人著 渓斎英泉画

出典:古典籍総合データベース : 春色恵の花. [初],2編 / 狂訓亭主人 著 ; 渓斎英泉 画

<参考>
ofellabuta: 泉目吉の変死人形
ofellabuta: 泉目吉の幽霊蠟燭

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