2012/01/25

明治期、鹿児島の中学校における男色

古本屋で買った「歴史民俗資料叢書第二期3 男色の民俗学」という男色資料のアンソロジーのような本を読んでいたら、巻頭に付された編者である礫川全次による解説の中で、「気違い部落周游紀行」で知られる鹿児島出身の作家、きだみのるの自伝的エッセイ「人生逃亡者の記録」より、 男色が当たり前のように存在した鹿児島県立一中時代の話が取り上げられていた。興味深いので孫引きになるが抜き書きしてみる。明治39年(1906年)ごろの話だそうだ。

興味深いのは、記述を信用するならば、学校が男色を問題と認識し禁止していたということと、単に男色というだけでなく強姦・輪姦が日常的に行われていたということ。ちなみに、男色が体格を悪くする云々という話はマスターベーション害悪論などと同じく、近代以降にあらわれた国家による青少年の性を管理しようという意思を感じさせる。

 おまい〔私〕が一中にはいった年、尻突きの名で呼ばれる青年の射精法は禁止になり、中学生でこの嗜癖を実行したものは退学になることが決まった。理由はこの習慣は少年の体格を悪くし、陸海軍の学校の学科試験に及第しても体格検査で落とされる者が多くあったからだった。

 それでもおまいたち〔私たち〕は知っていた、寄宿舎で夜半、少年たちの「堪忍っしゃったもし」と悲鳴が長い間聞かれたことを。それはこの声が他の“ニセどん(青年)”を呼び集めるからだった。

 名前は忘れたが、一人の少年が巨根のセンペどんから逃れようと八畳の間を三回り這いずり回いやっせえ、やっとセンベどんが降りっくいやったと。というような物すごい話もあって、少年たちの胆を冷やしていた。

 スワン筋のおまいの家のある屋敷の西隣は、三反歩ばかり空地になり、畑にたっていた。筋を隔てたその向かいに大きな屋敷があった。……この大邸宅には庭の端に離れがあった。……蓑田というおまいの同級生が借りて下宿していた。これは小柄な可愛い学生だったが、彼はかげでは、スワンの“安売り”と呼ばれていた。

 尻突きはセンペと呼ばれて少年たちに警戒され、尻突きのアクチブなほうは“ニセ”、パッシブのほうは“チゴ”と呼ばれ、普通だとニセはチゴを他の思慕者から守り、チゴも他のニセに突かせないのが原則である。安売りと呼ばれたのはたやすく誰にでも突かせるイージー・モラルの少年という意味だ。

 おまいのクラスの級長は地方出の少年だったが、ある夜、担がれて甲突川の堤で十六人に尻を突かれたと噂された。一週間後彼は学校に出て来た。不運なこの学友の顔色は青かった。頬の肉は落ちていた。

 このような不運な目にあうのは県下の田舎の高等小学校から来ている者だ。おまいもそんな目にあいかけたが、没落士族の俥夫のお陰で助かった。

「人生逃亡者の記録」きだみのる著 中公新書 1972
「歴史民俗資料叢書第二期3 男色の民俗学」礫川全次編 批評社 2003 より孫引き

wikipedia : きだみのる

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