2012/01/30

犯罪に対する恐怖と興味 - 甲賀三郎

昭和初期、日本の探偵小説黎明期に活躍した作家で、木々高太郎との「本格・変格」論争で知られる甲賀三郎が1934年に出したエッセイ集「犯罪・探偵・人生」からエッセイ「犯罪に対する恐怖と興味」を取り上げてみる。(なお原文は旧漢字であるが新漢字に改めた。)

犯罪に対する恐怖と興味

 事件に対する興味と恐怖とは、その根本に於ては相反した性質をもつてゐるものである。興味には当然快感を伴ひ恐怖には不快感が伴ふ。然らばこの恐怖と興味とは到底並立しないものかといふに決してさうでない。人間にはいはゆる『怖いもの見たさ』の共通性があつて、天変地異の惨害の跡とか、縊死、轢死、水死等による屍体の、目もあてられぬ酸鼻な状態を見ようとして人を掻き分けるやうなことさへもやる。殊に他人の犯罪に対しては、ある不快を抱きながらも、依然として興味を捨てない。犯罪に関する人の噂にはわれゝゝは何よりも聴き耳を立てる。日々の新聞の社会面にバカでかい表題で報道される強盗、殺人、詐欺、暴行の記事には他の何ものより強烈に興味を煽られるではないか。ある場合には一向目立つた犯罪記事の現れないのを却つて物足りなく思ひ、何か物凄い殺傷沙汰でも現はれないか、とさへ思ふことがある位だ。

 では何が故に我々が、かくも犯罪に対して関心なり、興味なりを持つかといふに、畢意それは道徳や法律の上から行ふことを禁じられてゐる世界を見せ付けられることに対する驚異なのである。いはゆる善を行ふことよりも悪を行ふことの方が容易であり、且つ興味を唆られる。こゝに第三者の犯罪に対しても好奇心の動くのは当然のことゝ言はねばならぬ。

 初期の犯罪者にあつては、犯罪を繰返すうちに漸次それに興味を見出すものもある。窃盗、万引等が繰返して行はれるのも興味の心理が興つて手伝つてゐるやうだ。

 然しある時期を経過すれば興味は減退して犯罪行為に習慣性を来す。殊に凶悪な、強盗、殺人者等になると、最早感受性は鈍磨してしまつて、犯罪に対して何の恐怖も持たないやうになる。勿論これらは犯罪に興味のあるべき筈はない。たゞモルドルストと呼ばれる殺人狂となると、殺人そのものに多大の興味を持つてゐるから、頗る危険な話だ。

 然し性的の犯罪者(猥褻、暴行等)となると最初から興味を以て襲ひかゝるから同じく危険である。が結局犯罪者の持つ恐怖といふものは犯罪そのものからうけるのではなく、刑事に追跡されるとか、捕はれてから刑罰を受けるとかに対する恐怖であつて、要するに、恐怖の持ちかたが全然異なつてゐるのだ。

 一体、犯罪に対してのみならず、事件に対する興味の起るのは、それが屢々行ひ得ないところから生ずるのである。恋愛に対して一般人が興味を持つのも、それが本能慾の満足といふこと以外に、われゝゝが屢々これを経験することの出来ぬ世界であるところに魅力を存してゐるのだ。これを創作なり劇なり映画にしたものが一般に受けられるのも、やはり恋愛といふものを経験することの困難なために、せめてさうした幻影にでも浮遊したいために外ならぬ。屢々恋愛を繰返してゐるものには、恐らく恋愛小説などは馬鹿らしくて読む気にならないだらうと思はれる。

 さうした意味から言って、犯罪を取扱つてゐる探偵小説の如きも、一般人には興味はあつても、始終犯罪事を取扱つてゐる刑事だとか、または裁判官にとつては最早興味の対象とはならない。

 で、結局探偵小説の愛好者はさうした犯罪の世界を知らない善人である知識階級によつて占められることになるのである。大体現在の社会は資本主義の重圧と、それに反抗するプロレタリアの闘争によつて差し貫かれてゐる。然るに知識階級はこの何れにも加担することが出来ない。全く両者の間に板挟みとなつて藻掻いてゐる状態である。彼らは常に憂鬱と懊悩とに満たされてゐる。その不快を紛はすために勢ひ享楽の世界に突入することになるのだ。

 然しこの享楽の世界も、神経が漸次先鋭化するに従って、普通の緩慢な刺激では堪へられなくなつてくる。結局最も端的なアルコールの麻痺とエロテイシズムを逐ふことになる。現在都会に見る種々な流行は悉くこの二つに発してゐるものと見てもいゝ。その結果はますゝゝ突きつめたものとなり、読書界に於ても猟奇的な読物の歓迎されるのは当然のことであらう。

 この要求に合致するものは探偵小説に措いて外にない。つまり、現実の世界にさうしたものを見ることの出来ないところから、それを浮彫にしたイメージの世界にどうかして遊びたいといふことになるのである。

 元々探偵小説なるものは他の創作と違つて著しく独創性を持つてゐなければならぬ。特殊の構想が必要でありそれだけに取材の範囲も限定される。かの有名なコナンドイルの『シャーロックホームズ』でも全部を通じて百篇位の傑作しかない。それだけに作者は苦心を要する。

 さて現在の探偵小説を見ると日本といはず西洋といはず可成りに行き詰つてゐるのが痛感される。偉大な天才が現はれて、この殻を破らない限りはいつになつても同一の個所を低迷することになるであらう。

 一方、現在の世相を見ると著しく陰惨なせつぱつまつた気分に満たされてゐる。新聞の記事を見ても人の話を聞いても一つとして我らの心を楽しませるものはない。

 絢爛な世界はあつても、それは要するに苦悩の遁避場にすぎぬ。強盗、殺人、詐欺、暴行、陰惨な出来事に社会は塗り潰されてゐるのだ。

 こゝに於て一般のものが思ひ浮べるのは、探偵小説の社会的影響に就てである。よく人は映画の感化をうけて、少年少女が不良に走つた事を挙げる。それと同様に、探偵小説を地で行つて犯罪に手を染めるものがないかと気に病むことである。然し、これは杞憂にすぎぬ。

 何故かといふに犯罪者は別段に潤色された迂遠な創作の力を借りなくても、最初から彼らは犯罪に手を付ける。探偵小説が近代人の疲労した神経を慰めることに役立つことがあつても、これが社会に悪影響を及ぼすものとは考へられない。

「犯罪・探偵・人生」甲賀三郎著 新小説社 1934 (沖積社 復刻版 1998) より

wikipedia : 甲賀三郎
青空文庫 : 甲賀三郎

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