2012/02/02

田中商会と漫画・エロ伝単

以前、多川精一著「戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々」(amazon)を読んだとき、当時の漫画家が伝単製作にかり出されていたという記述があって、気になっていたのだけれど、「大衆操作の系譜」渋谷重光著 勁草書房 という広告による大衆操作について述べた本の中に、田中商会という民間企業を装った陸軍参謀本部直属の宣伝製作機関が漫画家や、江戸川乱歩ら探偵小説作家まで協力させて伝単を作製したいたという記述を発見した。残念ながらこの本には図版が収録されていないのだが、乱歩らがアイデアを出したという伝単見てみたいなぁ。(※ 上図は文中で登場する太田天橋らが作製した伝単。画像はWEBサイト「伝単 戦時中に撒かれたビラ」より転載。)

 一九四〇(昭和15)年八月、東京の神田淡路町・荒井ビル3階に「田中商会」という看板をかかげた事務所が設立された。これは民間企業の装いをこらしているものの、そおの実は参謀本部第二部第八課の下におかれた宣伝制作機関であった。業務内容は、東南アジア諸国民および欧米兵士を訴求対象とした伝単(宣伝ビラ)づくりである。所長は田中中佐で、おおよそ六〇—七〇人のスタッフをかかえていた。民間人も数多く動員された。事務所への出入りにさいしては、軍の覆面機関と分からぬように、誰もが背広を着用した。

 ここのひとつの特色は、マンガ伝単の制作である。活字と写真の宣伝ビラよりも、分かりやすくて、説得効果があるということから漫画ビラが考えだされた。そこで、『満州戦線ペン画集』や『ペン画の兵隊さん』などの著作で知られた画家の太田天橋を伝単作製主任にすえて、その下に那須良輔、松下井知夫、長谷川中央、林勝世などの漫画家を配置した。また、アドバイザー・協力者として、鶴見祐輔、坂西志保、松岡洋子らの外国事情通、木々高太郎、江戸川乱歩、大下宇陀児などの探偵小説作家(人知れず人を殺す方法などのアイデア提供をうけ、それをテーマに米兵下士官に上官暗殺をすすめる伝単を作製した。米軍の内部攪乱をはかった伝単、ということになろうか)、それにチャンドラ・ボース、オン・サンらの植民地独立運動の大立者たちが参加した。

 漫画伝単の内容は大別すると、次の四種類に分けられる。(1) 厭戦気分をおこさすもの(かつては恋人との楽しい語らいの日々、それが今では船が撃沈され、海に投げだされ、鮫の餌食になろうとしている、といった過去と現在の境遇の違いをきわだたす絵)、(2) 的陣営の内部分裂を狙ったもの(上官やちは後方で女と酒で快楽にふけってる、兵隊たちは前線と日本軍の弾丸にさらされている絵)、(3) 原住民と欧米軍の離反を画策したもの(これにはさまざまのパターンがある。もっとも多いのが宗主国のイギリス人などが原住民を虐待、虐殺しているものである。インド人をナイフで刺し殺し、チャーチル首相がそのインド人の肉を食べている絵とか、インド人の指を切り取るイギリス人の絵とかがある。その他、欧米人を悪魔と見立てるもの、植民地独立運動を喚起するもの、などのパターンがある)、(4) 不安の醸成を意図したもの(これには、死への不安をおこさすものと、故国における妻・恋人の浮気、心変わりへの不安をあおりたてるものとがある。この種の伝単も、もう戦争どころではない、といった厭戦気分をおこさせる)。

 「田中商会」のもうひとつの特色は、これらの四種類の漫画伝単の中に、かなりの量の〈エロ伝単〉があったことである。女性のヌード絵はもちろんのこと、女性が暴行されている絵、性行為の絵などがしきりに出てくる(『日本週報』昭和三四年六月臨時増刊号、鈴木明・山本明編『秘録・謀略宣伝ビラ』昭和五二年、にそれらの実物写真版が収録されている)。他方、アメリカ軍の対日本国民。日本軍向けの伝単には、この種の〈エロ伝単〉は皆無であった。それゆえ、どうしても田中商会(陸軍参謀本部)製作のエロ伝単はきわった印象を与える。

 エロ伝単は、その製作態度にしても、絵柄にしても決して上品なものとはいえなかった。むしろ、下品で、野卑である。当時、日本国内には厳しい禁欲倫理的価値観が漂っていたが、伝単では放縦といえるほどのエロ・グロ表現が許されていた。もっとも、それより一〇年ほど前の昭和初期は「エロ・グロ・ナンセンス時代」であって、エロ的表現もおおっぴらにまかり通っていたから、その系譜が消えずに残存していた、といえぬこともない。だが、それにしても、エロ伝単のエロの度合いはひどかった。その表現のあまりのひどさに、軍司令部では「皇軍の威信を傷つける」ということで、配布することを許さず、焼却処分を命じたものもあった。皇軍を率いて、「正義の戦い」を繰りひろげている軍首脳部にしてみれば、エロは戦いへの冒涜と映ったのかもしれない。

 関係者は、エロ伝単製作の意図として、ひとつには「いかめしい軍司令布告ばかりではいけないから、エロもいれようということ」であった、といっている。アテンション・ゲッティング機能として「エロ」を活用したものらしい。そこには、深い製作意図といったものが感じられない。単純なる思いつきから出たもののようである。エロをテーマにすることの意味、またエロをとり入れることでの訴求効果などについて、踏み分けた思索の軌跡を見出すことができない。もうひとつの製作意図は「戦闘が始まった場合に、兵隊をホームシックのような気分にさせようとする」ためであった。当時の製作者の一人、松下井知夫はそう証言している。前述した伝単の「不安の醸成」と「厭戦気分の喚起」機能が、ここでは明瞭に認識されている。が、エロを必然とする論理は見当たらない。

 私は、エロ伝単は単なる漫画家のビジュアル・ポリシーなどから言い出されたものでなく、戦争における人びとの心理分析を経て割り出された作戦方針の一端であったと考えている。そのとき、モデルになったのは、やはり第一次世界大戦であった。この戦争において、「性」をめぐる残虐行為が頻発し、また「性における不道徳」的行為が増大した。そして、それらをテーマにしたビラ、ポスター、雑誌口絵などが次々とつくり出されていったのである。敵・見方双方ともに、「性」を戦時宣伝の素材にして、相手方の不安をあおり、戦意喪失を画策したのである。

 これらのケースを収録し、分析した書物がわが国でも刊行された。たとえば、雑誌『犯罪科学』の二周年記念増刊号である『戦争と性地獄』(昭和七年)が、それである。これには、戦争と「性」の惨禍を記述した二八論文と数多くの性漫画・性写真(エロ漫画、エロ写真といった類いのものも含まれている)とが掲載されている。頁数は三〇三頁におよぶ。(この増刊号の巻頭グラビヤ部分が、そのままそっくり『戦闘と性漫画』というタイトルの本になって刊行されている。六四頁、ハードカバーである。が、発行者を明記する奥付はついていない。一種のアンダーグラウンド出版物の体裁になっている)。

 これら掲載論文の強調していることは、まず戦地における異常な性的欲求についてである。兵士たちは前線では禁欲的状態を強いられているから、それに反比例するように性的関心は増大するという。また、戦争には悪(殺戮)と絶望(死)が満ちている。そのような状況では本能のおもむくままに性的行動をとったとしても全て是認されるかのごとき感じになる、と指摘する。だから荒廃した性を背景に、平時では考えられもしない残虐なる強姦行為も平然としいぇおこなわれる。強調の第二点は、欧米人女性の性的放埒さである。これは十字軍以来の伝統であって、銃後の婦人連の貞操感は信用できないという。「兵士の妻の不義密通は大戦中の中にやがて道徳的問題として喧しく世間の人々の口に上せられる様になった」のである。それに、一家の働き手を戦地に送っているので、家族は貧困に追い込まれ、女性が身を売る状態も発生する。銃後の性は乱れに乱れ、荒廃すると説くのである。

 考えてみれば、わが国のエロ伝単は、これらの二点を踏まえてつくり出されている。原住民女性を強姦している白人兵士を描いて、現地人との離反をはかり、また故国の恋人の性的不満や不倫を描いて兵士の不安をあおる——これらは全てありうることなのである。性的訴求の有効性を、これらの文献に触発されながら、軍当局は十分に計算したにちがいない。ただしそのとき、それは下品で、粗野な手法であることへの配慮はほとんどされなかった。だから、というべきだろうが、それらエロ伝単を受け取った欧米人兵士は、性的不能におびえおののく以前に、「それを見てからは日本人を奇妙な小さい人間だと軽蔑するだけであった」という反応を起こした。エロ伝単は、確かに戦争する者の心理のひだを衝いたのであるが、その心理をがたがたにゆさぶるまでには表現技術が完成していなかった。当然、期待する効果も生まれなかった。

「大衆操作の系譜」渋谷重光 著 勁草書房 1991 より

Wikipedia : 伝単
伝単 戦時中に撒かれたビラ

渋谷 重光
勁草書房 ( 1991-01 )
ISBN: 9784326600724

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